2011/3/24 木曜日

アイダホから出発

Filed under: 2011 L.A〜Idaho — hashimoto @ 1:16:43

翌朝は、帰途へ。でも、その日のうちに、日本へ飛ぶ飛行機への乗り継ぎが不可能で、サンフランシスコで1泊しないといけない。

ホテルの窓から見てみると、来る時は吹雪だったが、晴れていて、雪は積もっているが、道路の雪は溶けていて、ずいぶん走りやすそうだった。

スポーケン空港到着。

アラスカ・エアラインへ、チェックイン。

ここで、スーツケースが、50ポンドを2ポンド超過しているので、中身を少し減らして欲しいと言われ、雑誌が重いのかと思って、自分の写真が載っていたので、記念にもらってかえってきた機内誌や、ジャズフェスのパンフレットなどの入ったビニール袋を出した。

これが後に大失敗。空港内をうろうろしているうちに、袋ごとなくしてしまった。

そして、またここで、大パプニング、待てども待てども、飛行機へ乗せてくれない。

メンテナンスが、、とか言って、2時間後、飛行機を換えて、ようやく出発。

飛行場も大雪。ようやく出発したが、出発が2時間遅れた為に、シアトルで乗り換える時に、時間に全然余裕がない、急がないとサンフランシスコ行きの飛行機が出てしまう。

指定のゲートまで、走っていくと、誰もいなくて、ゲートも閉まっている。あわてて出発案内を見に行くと、なんと、違うゲートに変わっていた。それもシャトルに乗って移動しないといけないくらい遠いゲートに。もう時間が過ぎてきて、だめだと思いながらも走って走って、、

すると、空港内のアナウンスが、私の名前を呼んでいて、航空会社の人が、大きく手招きしている。

ようやくゲートへたどりついて、無事乗ることができた。

サンフランシスコへ着いたら、もう夜で、ホテルヘ電話してシャトルバスを呼ぼうと、トランクを受け取ってから、空港から外へでたら、何か前と様子がちがう。シャトルを待つバス停もないし、シャトルを呼ぶ為に設置されているはずの無料電話もない。

そのあたりにいた警備員のような男性に、シャトルはどこですか?と聞くと、この階じゃない、もう1F上ですと言われ、納得。

空港内のエレベーターで移動。

やっとシャトルを呼んだはいいが、また待てども待てどもシャトルバスが来ない。風が強くて寒いし、人はどんどん増えてくるしで、あとで気がついたら、皆同じシャトルを待っていたのだった。

シャトル乗り場は決まっていて、1台のシャトルで、複数のホテルと契約している。なので、いろいろなホテルのシャトルがまわってくる。

シャトルに書いてあるホテルの名前を見て、自分が泊まるホテルの名前が書いてあったら、それに乗ると、契約しているホテルに、順に停まって、「なになにホテル〜」と告げて、降ろしてくれる。

ベストウエスタンホテルを予約したのだが、3、4種類あって、ベストウエスタンホテルと書いてあるバスが来るたびに、運転手に聞くが、私が予約したベストウエスタン・グロブナー・サンフランシスコエアポートホテルの契約シャトルではない。

3、40分待たされて、ようやく来た。すっかり身体も冷えきって、疲れ果てて、ようやくベストウエスタン・グロブナー・サンフランシスコエアポートホテルへ。もう夜の10時前。

フロントに、朝のシャトルの予約をしようとしたら、予約はいらないと、シャトルの時刻表をくれた。

20分ごとに出ているらしい。とりあえず、お水だけ自動販売機に買いに行って、紅茶をいれて、ようやく一息ついた。

明日の朝にはまたすぐ、サンフランシスコ空港に戻らなくてはいけないので、とりあえず寝るだけのホテル。

朝早めに空港に行き、ここに来るといつも行く、日本食の「ともかず」へ。

五目うどんを食べて、ようやく、落ち着いた気分に。

お世話になったドワイナさんにお礼の電話を入れたり、空港のWIFIを使ってインターネットでメールをしたりして、時間をつぶした。

最後まで、飛行機の遅れに泣かされた旅だった。

今回の旅行中に、また次の招待の話がいくつかあった。

まず、ロスで、会ったホリーさんから、オレゴンで行われる、「JAZZ AT NEWPORT」への出演のお話があった。

こちらは2008年にも、一度出させてもらっていて、その時は、9/4だったので、そのころかなと思い、なんとなくふんふん、とか言っていたが、その後、話が進んで来て、このイベントだけでは、私の飛行機代に不十分なので、そのあとのもうひとつのイベントと合わせてお越し頂きたいと、具体的な話になってきたので、ようやく日にちを確認すると、なんと今年は1ケ月ずれていて、10月の初めとのこと。

実は、そのあたりで、神戸にて、結婚式で演奏することを1年前から頼まれている。

そのことをホリーに告げると、じゃ、来年にしましょうかということに。

もうひとつは、ライオネルハンプトンジャズフェスでの演奏の翌朝、レストランで朝食をとっていたら、一人の紳士がきて、「あなた、昨夜のオルガンのかたですね、こんな時でないと、ミュージシャンのかたとお話できないので、、、同席してもいいですか」と、言ってきた。

そして、「昨夜の演奏とてもよかった。あなたはワシントンD.C.へは来た事がありますか?」と聞くので、ないというと、「それはそれは、ぜひ、ワシントンD.C.へ来て、演奏して頂きたい」と言う。

近くにいたいたお友達のような方々も呼んで、「この人D.C.へ、来た事ないらしい、ぜひきてもらおう」、と。

すると、他のかたも、「そうですね、日本大使館のあの人に電話して、相談にのってもらったら?」とか、どんどん話がすすんでいる。

驚く私に、その方は、「ご心配なく、私はここのジャズフェスの役員を22年間もやっていて、議長も数年務めていたものです。職業は弁護士です」とのこと。その友人のかたも弁護士らしい。

「準備期間が必要なので、1年後くらいに実現するつもりで、これから連絡を取り合いましょう。カードはありますか?」と聞かれたが、うかつにも用意していなくて、「それではEメールして下さい」と、カードをくれた。

帰ってきてメールをすると、早速返事がきて、3年前にも私のステージを見ていただいていたことがわかった。

その時はライオネルハンプトンの100才の誕生記念イベントで、たくさんのミュージシャンが出演して、一人20分ずつしか演奏できなかった。「その時の演奏も大変よかったが、今回は1時間が2回ステージで、たっぷり見せてもらって、ほんとに楽しかった。一度休憩時間に、他の人のステージを見にいったけど、結局またあなたのステージを見に帰ってきて、他のステージを見る事ができなかった」と言って、「何かいいイベントができないか、今から気をつけておきます。」とのこと。

今回の旅行も、ここ、ライオネルハンプトンジャズフェスからの招待があったため、実現した。

高い交通費を払ってくれて、わざわざ日本から招待して下さっているので、頑張らないと!と、責任感でいっぱいで、一生懸命演奏したが、後で、フェスティバル事務局のドワイナさんが、「私はあなたのステージが、今回のフェスティバルの中で、一番良かったと思う」と言って下さって、頑張ったかいがあったと、ほっと胸をなでおろした。

ほんとにいろいろ大変でしたが、喜んで下さる方がいて、また次へつながる話もでて、またなにかおもしろいことが起こるかな?と思ったら、モチベーションも上がるので、苦労続きの旅でしたが、行ったかいはあったかなと思いました。

コメントはまだありません

No comments yet.

RSS feed for comments on this post.

Sorry, the comment form is closed at this time.

Powered by WordPress